「誰も知らない」

午後図書館に来たら、いつもよりかなり人が多い。ははあ、そうか、今夜はフットボールの優勝決定戦スーパー・ボウルがあるからだ。なにかとまとまりのないアメリカにしては珍しく、視聴率が20%を超えるという超大イベントなのだ。だから生徒たちは、明日の授業の準備を早めにやって、夜はテレビの前で大騒ぎするという計画なんだな。

夜、「誰も知らない」是枝裕和)という日本の映画を観に行った。今週末大学で上映した映画で、もともと見に行くつもりはなかったけど、ある人から「実にいい映画ですよ!」と聞いたので、それなら見てみようと、行く気持ちになった。見た感想は............うん、いい映画である。子ども4人(一番上は小学6年。父親が全員違うらしい)の母子家庭の運命を描いた作品。母親はデパートで働いていたが、男ができたらしく、だんだん家を空けるようになり、家事はぜんぶ小6の長男にやらせて、とうとう帰ってこなくなった。残された子どもたちは長男を中心に毎日の生活をやりくりする。ちなみに、この子たちは学校に行っていない。たぶん住民票とか戸籍に記載されてないんだろう。外出できるのは長男だけ。他の3人は、アパートの大家に見つからないように一日中家の中で過ごす。母親が消えてしまって、お金があるうちはまだよかったが、そのうち手持ちの金が底を尽き始め、電気、水道、ガスを次々にとめられていく。最初は整理整頓されていた家はみるみるまにゴミの山と成り果てる。

映画の中盤で、この4人は女子中学生と知りあうが、この役柄がまた秀逸。何とも言えないくらい秀逸。この中学生は友達関係がうまくいっていないこと以外、そして結構いいマンションに住んでいること以外に、素性が明らかにならない。人物設定としては希薄だけど、もし、この女子中学生の役がなかったら、この映画は全然違ったものになっただろう。

「誰も知らない」は感動物語ではない。涙腺をゆるませて許されるメロドラマではない。この作品は始めからおしまいまで、生きていくにおいて責任とは何なんのかを、繰り返し問いかけてくる。誰に対してどんな責任を負っているのか、そしてそれをどう果たすのか。責任とは大人にだけ要求されるものではない。ここに出てくる4人の子どもたちだって、それぞれが責任を負って生きている。でもときどきそれが崩れる。崩れたとき、悲劇が起きる。そして悲劇は誰かの幸福と表裏一体になっている。いなくなって久しい母親が、長男からかかってきた電話に「山本です」と答えたとき、この長男は母親の幸せと自分たちの絶望の未来を同時に理解した。そして、長男が、偶然から野球の試合に参加して楽しんでいるときに、家ではあの事故が起きた。

この映画は、静かに進んでいく。それは演技の仕方や、カメラの撮り方、挿入音楽がそういう雰囲気にさせているんだろう。子どもたちの演技は実に淡々としていて、ほほ笑ましいくらいだ。だが、こうした演技から受ける静かでほんわかした印象に引きずられてはいけない。なぜならこれは残酷な映画だからだ。見ている者を落ち着かなくさせる。映画にありがちな、正義と悪者がはっきりしない。子どもを捨てた母親は、悪者だというふうには描かれていない。もちろん善人ではないが、母親は母親でそれなりの責任を果たしていると自分で思っているのだ。ときどき出てくる父親たちだって悪者ではない。同時に、正しい人も出てこない。長男は、たしかによくがんばっているが、正義の具現者ではない(部分的にそういうシーンもあるが。たとえば、女子中学生が稼いだ金を拒むときなど)。この映画では、意図的に、誰が正しくて誰が悪いのか分からなくしてある。見る人は、誰に感情移入していいのか決められない。だから、なぜこの4人の子どもがこんなことになったのか説明できない。もちろん時間をたどって説明することはできるけど、じゃあ誰に責任があるのかと言われたら、答えようがないのだ。正義がないということは、一つの視点で物語を語ることができないということだ。だから、映画が終わっても、観客の誰一人として、この子たちの将来を見通せない。ラストのコンビニのシーンは、それを物語っている。あの事故があったからといって、何かが変わったわけではなかった。以前と同じ毎日を続けていくだけだ。不幸な死が、残された者たちに何の影響(いい意味でも悪い意味でも)も与えない。状況改善の何の契機にもならない。死が報われない。そういう意味でこれは残酷な映画だ。

正義の存在しないこの映画が明らかにするのは、他人は結局他人でしかないという当たり前の社会的現実だ。このみなしごたちと関わりを持つコンビニのアルバイトも、生みの父親たちも、限定的に手を差し伸べるだけだ。根本的な解決を求めて行動するわけではない。最低限の優しさを、この子たちのためというよりは自分のために、与えるだけだ。コンビニのアルバイトは、蒸発した母親に成り代わってお年玉の袋に子どもたちの名前を書いてあげたり、賞味期限の切れた廃棄処分のお弁当を裏口から長男にあげるだけ。それは、とりあえず今日の飢えをしのげるだけだ。明日もまた同じことをやらなければいけない。これはただの現状維持で、解決策ではない。父親たちだって、せがまれるから仕方なくわずかの額の金を渡すだけだ。だれ一人として、自分から進んでこの子たちを救い出そうとはしない。頼まれたから、本当にささいな行為を分け与えるだけ。それだけ。

一見同情的なあの女子中学生だって、家賃を滞納していることを知って、「私がお金作ったげる。」と言ったものの、やったことはと言えば、伝言ダイヤルで中年のサラリーマンをつかまえて、カラオケを一緒に唄って、一万か二万稼いだだけだ。確か家賃は98000円だった。とても足りない(とはいえ、この援助交際を申し出るシーンは感動的である。なぜなら、これがこの映画で唯一の、ほかの大人たちのように受け身ではなく、自分からこの子たちに協力を申し出るシーンだから。)。

ぼくは、この女子中学生の役柄は秀逸だと書いた。それは、彼女が最初は善意の代表みたいな顔をしてこの孤児たちに近づくのかと思ったら、最後には、他の大人と同じように、限定的な援助しかしない、しかできない、しかしてはいけない、ということを悟ったからだ。この中学生はほとんど喋らないし、何を考えているのかよく分からないから、あくまでぼくの感じた印象ではあるけれど、たぶん、オヤジとカラオケやって稼いだ金を、長男が受け取ってくれなかった時、彼女は自分と孤児たちとの距離を理解したんだと思う。だから、しばらく姿を見せなかった。次に登場するのは、あの事故の後、羽田に行って飛行機を見せたいから金が必要だと、長男から頼まれたときだ。要するに、ほかの大人たちのように受け身として現れた。

コンビニの店長だって、アパートの大家だって、分かっているのだ、この子たちがかなり異常な状況にあることを。でも大家は見て見ない振りをすることで、立ち退きを要求しなくてすむようにしている。だって、この子たちを追い出すなんてできないじゃないか! だから、現状維持という不作為の行為を続けるしかほかにとる方法はない。コンビニの店長は、映画の最初のほうで、この長男を万引き犯だと誤認したため、もうこの子とは関わりたくない。汚い格好で店に入ってきて立ち読みしても、万引きしても見逃すことで自分を納得させる理由を確保した。

もし、「誰も知らない」現代社会の歪みを象徴していると思う人がいたら、それは間違いだ。「誰も知らない」は、様々に形を変えて、我々の日常にも見てとることができる、一つのありふれた光景を極限的に描いている。だから、伝統的家族制度の崩壊がどうのこうのと考えるのも正しくない。確かにこの家族は壊れたけど、制度としての家族が維持されている時代や社会でも、責任のバランスがおかしくなって家族が壊れることはいくらでもある。「誰も知らない」は社会批評のための作品ではない。その正反対だ。社会とかヒューマニズムとかそういうものがいかに薄っぺらくていい加減なものかを見せつける。

経済的に豊かな社会が悪いわけではない。経済的に豊かになれば 人間どうしの繋がりが失われるわけではない。日に日に身なりが汚くなっていくこの子たちの束の間の笑顔をみて感動してはいけない。何一つ不自由なく暮らす自分を恥じる必要はない。羽田の飛行機のシーンはうるうるしてはいけない。実際、登場人物はだれも泣かなかった。赤の他人である女子中学生だって泣かなかったじゃないか。震える長男の手にそっと自分の手を被せて、その震えを抑えるだけだった。「誰も知らない」は、感動を受け取れるような種類の作品ではない。絶望を額面どおりに受け取らざるを得ない作品だ。それを分析することはできない。正義が欲しければ「仮面ライダー」を見てればいい。


初出エキサイト 2/5/2006 SUN http://takebay1.exblog.jp/3149264/