エド・サンダーズ「ザ・ファミリー」

世の中にはカルト宗教と呼ばれる集団がたくさんある。宗教の装いをしながら、裏で反社会的な行いをする集団をそう呼んでいる。でも、それは事後的に決まるもので、どれが反社会的カルト宗教で、どれが社会的と共存している善良な宗教なのかは見分けはつかない。オウムだってそうだった。私の知り合いにも東京の荻窪かどこかの道場に行ってきたと言う人がいて、危ないぞと私は警告したが、本人は楽しそうにそこでの体験を話し、もらった本を見せてくれた。数年後、彼らが何をしたかはここで繰り返すまでもない。でも友人が体験セミナーに行ったときは、ヨガとかチベット密教とかを勉強する普通のサークルだったんだろう。たぶん。

ザ・ファミリーだって、事件を起こすまではノーマークのグループだった。サンフランシスコに住んでいたチャールズ・マンソンは見た目はふつうのヒッピーで、ハイト・アッシュベリーをうろうろしているぶんには全然目立たない男だった。マンソンは妙なカリスマ性を発揮して子分をどんどん作り、はてには大人気バンドのビーチ・ボーイズのメンバーだったデニス・ウィルソンと懇意になったほどだったので、世間はすっかりこの男を信用してしまった。そして1969年の夏に、あの事件が起こった。有名女優シャロン・テイト殺害事件である。テイトの夫も映画監督として有名だったので、この事件は全米を揺るがした。警察は、この事件をマンソンが主導したと断定した。

マンソンはザ・ファミリーを結成するまでは、人生の大半を少年院や刑務所で過ごした。そんな彼は、なぜか女性を口説くのは上手かったようだ。サンダーズの本には多くの女性が登場する。しかも、育ちのよい女性がほとんどだ。不思議に思うかもしれないが、1960年代後半のサンフランシスコは、長髪のヒッピーたちがロック、LSD、コミューンと反体制を気取った独自の文化を作っていた最中だった。そういう時代に、マンソンのような本当の反体制人間は貴重で魅力的だった。そして、マンソンは彼のもとに集まる人たちを「ザ・ファミリー」と呼ぶようになり、共同生活を始めた。

カルト宗教、あるいはそのような集団のほとんどは、最初は善意で始まったのだと思う。そして組織の拡大の過程で、社会との接点を失い変質していき、最後は陰惨な事件を起こすというパターンを踏むのだと思う。この時期のアメリカでは、ジム・ジョーンズのピープルズ・テンプルがあった。インディアナ州で慈善団体のような活動を始めたジョーンズは、失業者を救済したり、非白人の子どもを養子にとったりして、コミュニティを作り上げた。彼をたよって多くの人がコミュニティに加わり、集団生活を送った。やがて、インディアナ州からサンフランシスコに集団移住したことで、ピープルズ・テンプルは全国的に存在を知られるようになった。このときは、まだ善良でまともな集団だった。ジョーンズは市の役職に就いたほどだ。しかし、徐々に社会とぶつかるようになり、排他的傾向を強くし、アメリカを離れて、ガイアナという中南米の小国に集団移住し、1978年集団自決をするに至った。

ジム・ジョーンズのピープルズ・テンプルは最初こそは至極まともで、人の役に立っていた。彼自身も善良な動機だったと思う。しかし、マンソンのザ・ファミリーには善良な動機がどこにも見当たらない。「ザ・ファミリー」を読むと、いきなりマンソンの妄想が全開で、ビートルズの「へルタースケルター」をお告げの歌だと勝手に解釈してしまう。この本を読む限りでは、マンソンは何一つ社会的善をしていない。

エド・サンダーズの「ザ・ファミリー」は、シャロン・テイト殺害事件ほかの殺人事件を一部始終を綴ったノン・フィクション。警察資料と裁判資料を主な情報源として執筆されている。文章は事実の積み上げが多く、読み物としてはトム・ウルフの本のようなエキサイティングさはない。だから、事実関係を逐一追いかける必要がないのなら、さらさらと読める。サンダーズ自身の考察みたいなものもほとんどない。無機質な文章が350頁続く。でも、無機質なのは実はサンダーズの文体ではなくて、マンソンの人間性なのかもしれない。

こういうおかしい人にたいして、評論家は社会の病巣の一部だとして、原因を社会の堕落とかに求める傾向があるが(読んだペーパーバック版の裏表紙にそういうことが書いている。でも、著者のサンダーズはそういうことには興味がないと思う)、すべての社会事象を時代の反映と考えるのは無理がある。マンソンの犯罪はそういう例に当たると思う。だから、個人的には1960年代後半のアメリカ社会におけるザ・ファミリーの意義のようなものは何も出てこない。ただ事実だけ。シャロン・テイト他の人が殺されて、マンソン本人は今でもカリフォルニアの刑務所で生きているという事実だけ。そういう意味で、必死に意味とか意義を考えながら読む通常の読書とは違う感覚の読書を味わった。