かたじけない

右目に違和感があり、それが続いたので、病院に行こうかと思い、鏡でよく目を見たら、ものもらいができていた。それなら放置しておけば治ると思い、そのとおりになった。未成年のときによくかかった病気が、ひさしぶりに現れた。

時代劇のドラマで、手柄を立てた侍が殿から褒められたとき、「かたじけない」と言っているのをみて、いつかぼくもそれを使ってみたいと一年くらいその機会をうかがっていたが、ついに先日、「かたじけない」と言える場面がやって来て、好機到来と心の中でこぶしを握りしめながら、その語を発した。提出を延ばしていた宿題をやり遂げたようですっきりした。

別に、ぼくは手柄を立てたのではないけど、手柄という語から「過去の栄光」という語を連想した。過去の栄光にこだわるな、ということは経営論関連の文脈でよく聞いてきた。さらに、アレン・ギンズバーグが「過去のアイコンにすがるな」と言ったり、佐野元春が唄った「昔のピンナップはみんな壁から剥がして捨ててしまった」というフレーズは、ぼくの中にイディオムとして保存されている。それらのメッセージの持つ重要性は、過去にこだわらないで進んでいく人を見るよりも、過去にこだわって身動きが取れなくなり、周りから疎んじられ、ぶざまな姿をさらけ出している人を見ることで、よりよく理解できる。

過去にこだわるなというのは、経営書が説くような、過去の成功体験をいつまでも引っ張るな、という意味だけでなく、もっと広く捉えて、これまで自分が拠り所としてきた考え方は、自分の過去の限定された体験から導かれたもので、必然的にそれが通用する場面は限られているので、どんなときでも、誰が相手でも、その考えややり方が通用するわけではない、という意味に捉えればいいと思う。そう考えて自分の周りや自分自身を見ると、具体的に考える材料がたくさん転がっている。

ある種の人を見ていると、これまでどういう人生を過ごしてきたのかが透けて見える。そういう人は、これまで処理してきたであろう様々な人間関係や振りかかってきた各種現実の質と量がきわめて限られているので、状況、相手によって処し方を変えるという臨機応変がきかない。経験不足なのか学習不足なのか、いつも自分のやり方に固執する。なぜ固執するかというと、たったひとつの自分のやり方しか持ってないからだ。それ以外に持ち駒がないからだ。状況に合わせて、という現実的対処ができない。そういう人は、自分の意見や方法を否定されたり、それが通用しないと分かるとパニックになる。それが自分のすべてなのだから。

賢い人は、いくつもの引き出しを持っていて、状況、場面に応じて、対処法、理屈の建て方を使い分ける。だから、他人から批判されても平気でいられる。自分の引き出しの一つを批判されただけなのだから、ほかの引き出しを開ければいいじゃないかと思える余裕がある。前言撤回、必要なら謝罪という行為にためらいがない。

過去にこだわるなとは言っても、私たちは自分の過去を拠り所にしてしか進んでいけない。過去とは時間の塊であるけど、学習教材として再活用することはできる。そういうことをできる賢い人に私はなりたい。