ニューポートのボブ・ディラン

Bob Dylanは1963年から65年の3年連続でNewport Folk Festivalに出演した。とくに、65年の「騒動」はよく知られている。エレキギターを持ったディランがMaggie's Farmを演奏すると客がブーイングを鳴らして、ディランはステージから退散せざるを得なくなったという逸話が、いろいろな尾ひれを付けて語り継がれている。

金曜日の夜、PBSチャンネルで、Newport Folk Festivalでの三年間のボブ・ディランの演奏をまとめた番組が放送されたので、仕事をしながら見た。一時間半の番組で、関係者へのインタヴューは皆無で、解説者の語りも極力減らして、ディランのすべての演奏をほとんどノーカットで順番に流して、彼の変化をじっくり見てみようという主旨の番組だった。

ディランは、62年にコロンビアというメジャーレーベルからデビューした。デビューアルバムはさほど売れなかったが、二枚目のアルバムが大ヒット、三枚目も大ヒットして、一躍時の人となった。ちょうど公民権運動が盛り上がりを見てていた頃で、ディランは63年の夏、ワシントンDC でキング牧師I have a dream のスピーチをした集会で、ピーター・ポール・マリーと歌ったことで、時代の寵児という扱いを受けるようになった。この事実が、おおかたのファンのディランの対するイメージ、つまり社会派プロテスト・シンガーとなったのは、彼にとっては不幸だったのかもしれない。

実際のディランは、ものすごい速度で変化していった。売れなかったデビューアルバムは、伝統的なフォークシンガーの系譜にのっとった作品で、オリジナルの2曲を除いてはカバー曲で構成された。二枚目の"The Freewheelin' Bob Dylan"は、ほとんどをオリジナル曲で固めて、Blowin' in the Windをはじめ、Masters of War、Oxford Town、Talkin' World War III Blues などのプロテスト・ソングが支持を受けた。3枚目のThe Times They Are A-Changin'も二枚目の路線を踏襲したものといってよいだろう。タイトル曲はじめ、The Lonesome Death of Hattie Carroll、Only a Pawn in their Gameなどの人種差別に関する歌が収録された。4枚目のAnother Side of Bob Dylanは作風をがらりと変えた。前作で見せた社会評論のような歌詞はなくなり、内省的で私的、詩的な歌詞を書いた。My Back Pages、Chimes of Freedom、All I Really Want to Do、It Ain't Me, Babyなどである。以上の4枚は、しかしながら、歌詞の内容に変化はあったが、サウンドとしてはフォーク調のシンプルな楽器構成だった。ディランのアコースティック・ギターとハーモニカが基本になっていた。ところが、5枚目のBringing It All Back Homeは、エレクトリック・ブルース・サウンドを前面に押し出した。Subterranean Homesick Bluesがこのアルバムの一曲目である。それでも、完全にエレクトリックに移行したのではなく、Mr. Tambourine Manなどアコースティック・サウンドも残したアルバムではあったが。

ニューポートに出演した63年から65年のディランは、レコーディング・アーティストとして以上のような変化を遂げていた。つまり、ガスリー、シーガーの伝統を引き継ぐフォークシンガーとしてデビューして、社会派シンガーに変身して、詩人のような歌詞を書きだしたと思ったら、こんどはエレキ・ギターに持ち替えてロックンローラーに変身したのである。これだけの変化に要した年数はわずか3年数か月。周りがこの変化についていけなかったというのは一面では正解だが、音楽界も急速に変化していった時期だった。64年はじめにビートルズアメリカデビューして、ポップ音楽のフォーミュラが確立した。若者向けの音楽マーケットが拡大する中で、ビートルズサウンドは一つの基準になった。

65年のニューポートで、ディランがエレクトリックの演奏を始めた時、楽屋にいたピート・シーガーが怒り狂って、斧を振り上げて配線を切ろうとしたという逸話は嘘。だいいち、なんで楽屋に斧があるのか? それに、配線を切らなくてもプラグを抜けばいいだけの話だ。でも、この話は、シーガーのイメージと斧から連想させる樵のイメージが合致しているので、よくできた話だと思う。それはともかく、シーガーは、ディランの演奏スタイルにさほどこだわりは持っていなかった。シーガー自身の弁によると、ロックサウンドのライブにPAが慣れていなかったので、スピーカーから出る音が悪く、ディランの唄う歌詞が聞き取れなかったので、ここに斧でもあれば、いっそのこと他の楽器の配線を切ってしまうのに、と仮定法の語法で喋ったとうことらしい。でも、ディランのエレキ演奏に本気で怒った人はいる。アラン・ロマックスだ。ロマックスは、エレキ演奏のことでディランのマネージャーのアルバートグロスマンとつかみ合いの喧嘩をやる寸前までいったということを何かの文献で読んだ。

では、観客のほうはどうだったのか。観客といっても当然受け止め方はさまざまで、十把一からげには扱えない。もちろん、エレキのディランが許せない客はいただろう。新しいディランを歓迎した人もいただろう。PAの不調にいらだってブーイングをした人もいただろう。実はMaggie's Farmをエレキでやったのは夜の部のステージで、昼間のステージではアコースティックでLove Minus Zero/No Limitを歌った。だから、彼としては昼と夜とでバランスをとったのだし、ニューポートのステージの数週間前に、Bring It All Back Homeが発売されたので、新曲を披露したいという当たり前の気持ちもあった。昼間のLove Minus Zeroも新作Bring It All Back Home収録の曲だった。どうしてMaggie's Farmはいけないのか? とディランは思っただろう。とにかく、客のブーイングでステージを降りたディランだったが、司会のPeter Yarrowが観客を説得して、ディランを再びステージに呼び戻した。ディランはアコースティック・ギター一本で、Mr. Tambourine ManとIt's All Over Now, Baby Blueを歌った。どちらもやはり新作Bring It All Back Homeからの曲だ。エレクトリック演奏が不評だったことに動揺したディランが涙を流しながら歌っているという人もいるが、それはあり得ない。人間、泣きながら歌うと、それが声に表れる。ディランの歌は完全に自分の声をコントロールしている。それに、もし客に不信感を持ったなら、だれかEハーモニカ持ってない?とは言えないだろう。

人は変わるものなのよ。昔の他人や自分を唯一絶対の基準にしてはいけない。変わってしまうことで招く不幸というのもあるが、変わろうとしないことで招く不幸の方が大きいと思う。でもいったいディランは変化したのか? ディランのこの変化は、変化したように見えて、実は変化していないのではないか。ぼくはそう思っている。そのことを書くには、変化とは一体何かとか、ディランの経歴をもっとくわしく書く必要があるので、今日はここで止めておこう。