Midnight Cowboy

こういう映画だとは予想しなかった。カウボーイものの映画を見たいと思って、たまたまこのタイトルを選んだ。たしかにカウボーイは出てくる、本物ではないが。テキサスの田舎から野望を引っさげてニューヨークへやって来たカウボーイ気取りの男が、都会の底辺で生きている男と出会い友情を深める。公開が1969年で、多分ストーリーの時代設定もその頃だと思う。

ナルシスト気味でうぶな感じの男(ジョー)が、新調のカウボーイ・ハット、カウボーイ・ブーツ、カウボーイ・シャツを身に着けて、故郷テキサスを後にする。目指すはニューヨーク。成り上がろうという計画だ。ニューヨークの女はカウボーイ・スタイルの男にそそられるはずだという自信があるらしく、ジゴロか売春夫としてニューヨークで生きていく決意らしい。めでたく最初の客を取ったが、彼女は娼婦で逆に金を要求される。バーで知りあった男(ラツィオ)が、自分に仕事を斡旋してくれるというので手を組むことになったが、彼は男娼専門で、キリスト狂いの変人や学生風の男をジョーに紹介する。キリスト狂いの男からは逃げることができたが、学生風の男には映画館でしゃぶられる。しかしこの学生は無一文で、また取りっぱぐれてしまう。ホテルを追い出され、仕事は見つからず、ようやく現実を悟ったジョーは、ラツィオの廃虚のようなアパートに転がり込み、何のあても見込みもない二人の共同生活が始まる。ラツィオは肺が悪いらしく、いつもせき込んでいる。仕事はないので、盗みでかろうじて生計を立てている。ジョーは、たまに客を取る程度で、成り上がるという夢は夢でしかなかったということが分かり始める。ラツィオはジョーにしばしば、「フロリダに行きたい」という夢を話す。太陽、ビーチ、金持ちの女がわんさか、そういう話をジョーに聞かせる。やがて、ラツィオの容体が悪くなり、起き上がれなくなる。ジョーはシカゴから出張にきた男から金を強奪して、ラツィオとフロリダ行きのバスに乗る。終点のマイアミに着く寸前でラツィオは息を引き取る。これがあらましだ。

映画のテーマは、カウボーイというイメージにまつわる男性性(masculinity)の消失だ。ジョーがカウボーイの真似をするのは、それが女性を惹きつけると信じているからだ。ところが、ジョーはニューヨークで予想外の現実に突き当たることになる。ジョーがニューヨークで性行為を持つシーンは三回ある。最初は娼婦と彼女のアパートで、次は若い学生風の男と映画館で、最後はパーティーで知りあった女と彼女のアパートで。一回目の娼婦とは、金をふんだくられたものの、彼が信じる男性的なるものの象徴としてのカウボーイは傷つかずにすんでいる。2回目の映画館での出来事は、金を取り損ねただけでなく、カウボーイというイメージが女性を惹きつける記号ではなく、同性愛の隠喩になっていることにジョーが気がついたはずだ。少なくとも観ている側にはそれは伝わってくる。最後の3回目では、彼はインポテンツ状態になり、女からはホモじゃないのと遠回しに言われる。最終的には「職務」を果たしたのだが。これら3回の性行為シーンは、ジョーが信じていたカウボーイというイメージが崩れていくさまを示している。

いうまでもなく、カウボーイは西部開拓の歴史と関係している。古典的な西部劇でおなじみの、無法者を許さず、女性には優しく、町の治安を守るためなら命を懸けて戦うというカウボーイのイメージが、ニューヨークでは全く通じない。むしろ反対にジョーは、カウボーイとホモとが結びついているという、カウボーイの正統からすれば最も許しがたい現実に直面することになる。ラツィオから、このことを直接に指摘されるシーンがある。「そんなカウボーイの格好をするんなら、上流階級の女を狙うよりも、42nd Street(ホモのたまり場)に立っていた方が儲かるぜ。」というようなことをラツィオに言われたジョーは、「おまえ、ジョン・ウェインがホモだって言ってるのかよ?」と返答する。

ジョーが言ったこのセリフが、この映画のすべてを言い表している。ジョン・ウェインとは、多数の西部劇映画に出演した大スターである。ハリウッド映画におけるカウボーイのイメージを作りあげた張本人である。ジョーがカウボーイ気取りでニューヨークに出てきたのも、ジョン・ウェインになりたかったからなのだろう。でもあきらかに時代遅れである。この映画は60年代後半という設定だから、ヴェトナム戦争反対運動が盛り上がっていた時期である。ましてやニューヨークである。ウェインのような好戦的なヒーローは受け入れられる余地がない。

崩れ去ったのはカウボーイの男性性だけではない。この映画で描かれているカウボーイのイメージの変容はアメリカ社会の変容をも表している。アメリカは生産中心から大量消費を基本とする社会に移行した。ベビーブーマーたちが一つのマーケットとなった。中流階級はこぞって郊外の一軒家を手に入れ、そこで生まれた子どもは、テレビがあって、TV Dinnerというインスタント食品を消費しながら育ってきた。ジョーの回想シーンにはテレビやTV Dinnerが何度か出てくる。ぬくぬくとした環境で育った彼らは、カウボーイのような強さを必要としなかった。カウボーイ的なイメージは社会の本流では必要とされなくなったので、どこに行ったかといえば、この映画が暗示するように、都会の同性愛者たちで消費されるようになった。

この映画には、ジョーの回想だか妄想だか、区別がつかない映像が何度も挿入される。一番多いのは、ジョーが女と裸で抱きあっている映像だが、これが回想なのか妄想なのか判断がつきにくい。また、この映像とつながるような感じで、なにか性的ショックを体験したような映像も挿入される。これもおなじく回想なのか妄想なのかはっきりしない。あるいは、上に書いたようなニューヨークでの体験が過去の記憶と混ざり合った映像なのかも知れない。はたまた、観る者を煙に巻こうというジョン・シュレジンガー監督のいたずらなのかも知れない。

いったい、このジョーという男、地元テキサスでは女にもてたのだろうか? 地元でもてたから、ステップアップを求めてニューヨークに行ったのか? あるいは地元でもてなかったので、都会に行って人生をリスタートしようと思ったのか? 上に書いた女と抱きあうシーンが回想なのか妄想なのかにもよるが、たぶん、地元テキサスでは女にはもてなかったので、カウボーイというイメージで都会で女にもててやろうという野心があったのではないかとぼくは解釈している。もしそう解釈すると、テキサスからニューヨークへと東に向かう行程は、歴史的に西部開拓が示す東から西へフロンティアを押し拡げていった過程と逆になる。つまり、歴史的には東から西へ開拓を続ける過程でカウボーイのイメージが形成されたのに対し、「ミッドナイト・カウボーイ」では、カウボーイという神話がまだ力をもつ土地を求めて西から東へ移動するという逆の現象が起きていることになる。もちろん、ニューヨークでもカウボーイは通じない。反対に、ホモのレッテルを貼られてしまう。

ジョーがカウボーイに対して非現実的なイメージを持ったように、ラツィオもフロリダに対して非現実的なイメージを持っている。雑誌の観光広告をそのまま信じたかのように、ラツィオはフロリダには太陽、ビーチ、裕福な女があふれていると、ことあるごとにジョーに聞かせる。映画では、フロリダで女に囲まれて贅沢な生活を送っているラツィオの妄想シーンが二、三度挿入される。推測だが、フロリダが、ある種の楽園のようなイメージを持ち始めたのは多分50年代だろう。観光リゾートとしてフロリダが賑わうためには、アメリカ人が旅行に出かけられるだけの収入を得る必要がある。そういうことが可能になったのが、経済好況にわいた50年代だったからというのが一応の根拠として成り立つと思う。ラツィオは形成されたばかりのフロリダというイメージを信じていて、いっぽうのジョーは消え去ってしまったカウボーイというイメージをいまだに信じている点でも似た者同士だといえる。

映画の最後は、ジョーとラツィオがバスに乗ってフロリダ州マイアミを目指す。ラツィオはもう息も絶え絶えの末期状態だ。終着のマイアミ手前の休憩地点で、ジョーは普通の服を買い、これまできていたカウボーイ・ファッション一式をクズカゴに捨てる。マイアミでなにか堅気の仕事を見つけるからよ、とラツィオに語りかけているうちにラツィオは死んでしまう。カウボーイ・ファッションを捨てたのは、もうカウボーイに対する幻想を持ち続けられなくなったからでもあるし、カウボーイという仮面を必要としなくなったからでもあろう。

最後に、余談として。いかにも60年代後半のニューヨークだなあと思うのは、パーティーでアンディ・ウォホールみたいなエキセトラが出てきたり、サイケデリック・アートもでてきて、これは「イージー・ライダー」を連想した。それから、ラツィオ役はダスティン・ホフマンだが、「卒業」("The Graduate" 1967) でベンジャミンを演じた後に、「ミッドナイト・カウボーイ」でラツィオという心理的に鬱蒼した男の役を演じたことになる。秀逸な演技。