恋しいものはといえば2

何といってもアメリカの雑誌がよめないこと。USPSに日本の住所への転送願いを出したが、どうも雑誌は適用外のようで、日本に来てもう1か月が経つが、雑誌は一冊も転送されてこない。アメリカの雑誌は安くて面白いので、たくさん定期購読していたが、それらが読めなくなったのは寂しい。日本にいても購読はできるが、ものすごく高い。だから代替策として、大学の図書館で読んだり、ウェブで最新号の目次をチェックして興味のある記事はプリントアウトして読んでいる。有り難いのは、記事のだいたいはウェブでただで読めるということである。雑誌によっては、全部読めるのもあるし、半分くらいしか読めないのもあるが、日本の雑誌が出し惜しみしているのと比べたら雲泥の差であることははっきりしている。アメリカの雑誌は定期購読しても安いし、ウェブでも読める。日本の雑誌は、定期購読しても店頭価格とあまり変わらないし、ウェブでは読めない。この差は何なのだろう。作り手側にどんな事情があるのかはいちいち書かないけど、この閉鎖性(高い、ウェブで公開しない)は、社会が知識にアクセスすることを妨げている、ということは間違いなく指摘できる。新聞だって、過去記事は有料にしているけど、いったい誰が金を払ってまで読むのだろう。そういう高飛車な態度だけで、消費者は逃げていく。反対に、アメリカはたしかに知識に対する敷き居が低い。通っていた州立大学の図書館のことだが、州経済の不況のため、州議会が大学予算の一割削減を決めたとき、大学はコスト削減策をあれこれ講じたが、大学図書館は聖域扱いだった。24時間オープンは維持したし(電気代、人件費は相当なもの)、インターライブラリー・ローン(これも搬送費はかかるし、本を探したりスキャンしたりと手間暇がかかる)などのサービスは維持したし、一利用者として不便になったことといえば、それまで印刷し放題だったプリンターが撤去されたことぐらいだった。憲法にも修正条項にも書いてないけど、知識に対するアクセス権が保証されている。いいよな、こういうのはなかなか真似できないぞ。