グレート・ギャツビー

人間には二通りある。自分の人生を地道に積み重ねていく者と、そのような人間を食い物にしながら生きていく人間の二通りだ。スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(Scott Fitzgerald, "The Great Gatsby")をひと言で言い表すとすれば、こういうことになると思う。3か月ほど前に「グレート・ギャツビー」を読んで以来というもの、この小説のことがずっとぼくの頭から離れない。(以下に示す引用はすべて新潮文庫野崎孝訳から。)

これまでぼくは「グレート・ギャツビー」について悲劇小説という印象を持っていたが、今回読み返してみてその印象を捨てた。ギャツビーの人生は確かに悲劇だが、その先を考えさせる力をこの小説は持っている。この小説は、ギャツビーと彼を取り巻く人たちの「身の振り方」を通して、人はどのように「成長」を手に入れていくのだろうかという物語であると、ぼくは理解し直した。

世界をもっと単純に考えていたミネソタ出身のニック・キャラウェイが大学卒業後ニューヨークへやってきて、ギャツビーという不思議な隣人と知りあい、ベルサイユ宮殿みたいな(映画版"The Great Gatsby"ではそういう感じだ)ギャッツビーの邸宅で週末ごとに繰り広げられる盛大なパーティーに参加するようになる。そのパーティーの評判は多くの人に知れ渡り、ギャツビーと面識のない人たちが、招待状を持たずに大挙してやって来て夜明けまでどんちゃん騒ぎをやらかす。ニックはそんな同年代のギャツビーの華麗な生活ぶりに違和感を感じたが、ある日その理由を打ち明けられる。昔の恋人デイズィ(ニックのいとこ)が対岸に住んでいるので、彼女がふらりと自分の家に来てくれることを期待して毎週パーティーを開いているのだが、来てくれそうもないので、ニックに引き合わせてもらう段取りを整えて欲しいと頼む。

グレート・ギャツビー」は「成長」をめぐる物語だと、ぼくは書いた。成長はここでは「希望」の同義語である。ニックがギャツビーの中に見たものは、希望の時間軸がずれているということだった。一財産を築いたギャツビーであるから、結婚相手であれ、恋人であれ、女を見つけるのはたやすいことのはずだ。なぜ、昔の恋人にこだわるのか? ニックは推測する。デイズィそのものを取り戻したいのではなく、「何かを取り戻そうとしているのだ、デイズィを愛するようになった何か......おそらくは自分に対するある観念をでも......デイズィを愛するようになってから、彼の人生は紛糾し混乱してしまった。だがもし彼が、いったんある出発点にもどり、ゆっくりと全体を辿り直すことが出来るならば、事の次第をつきとめることができるだろう....」。

デイズィはすでに大富豪と結婚している。ニックは、過去は繰り返せないと忠告するが、ギャツビーは自分の希望を信じて疑わない。過去は繰り返せる、と。ギャツビーはデイズィを離婚させて、自分の元に戻ってきて欲しいと願っている。それが可能なだけの財産を築いた。だからそれは可能だと本気で信じている。それとも、そう信じることが自分を救済する唯一の方法だと考えているのか?

ところが、デイズィの住む世界は、ギャツビーの見いだす希望を受け入れるようなおおらかさを持ち合わせていなかった。"Rich girls don't marry poor boys." これは、ロバード・レッドフォード主演(ギャツビー役)で映画化された1974年の映画版「グレート・ギャツビー」で、ギャッツビーが、なぜ兵役から戻ってくるまで待ってくれなかったのかとデイズィを問い詰めた時、デイズィが言った言葉である。ギャツビーはおそらく最初から、つまりデイズィと出会ったときから、二人の住む世界は違うことを悟っていたのだと思う。理屈ではなく、直観として、観念として。小説の一シーンで、こういう箇所がある。ニックが「デイズィの声には無分別なところがあるからね。」と、ギャツビーに話しかける。それに応えてギャツビーは、「あの声はお金にあふれているんです。」とこともなげに言う。結局、ギャツビーの中で取り憑いて離れなかったのは、経済的成功に餓えている人間と、経済的成功をあらかじめ与えられた人間との超えがたい断絶なのだろうか。軍隊にいたとき初めてデイズィと出会い、お金がはなつ魔力のようなものを知ったギャツビーのそれ以降の人生は、デイズィを愛することと経済的成功を収めることと同列に見てきたのだろうか。二つがいつも満たされていることで初めて、自分の人生のまっとうさを証明できるとでも考えていたのだろうか。

ギャツビーという人物をひとことで言い表せば、さきほどから述べているように、「希望」という語がぴったりだろうか。あるいは「立身出世」という語もあながち外れてはいないと思う。では、デイズィはどうだろうか。おそらくニックが言った「無分別」("carelessness")が適当ではないかと思う。ギャツビーのように、人生を一歩一歩積み重ねてきた者が、デイズィの無分別さのせいで一挙に崩れ去る。デイズィが夫の愛人(だったとはデイズィ本人は知らない)のウィルソン夫人を過失でひき殺し、同乗していたギャツビーが罪を被る決心をする。真実を察したデイズィの夫ブキャナン氏が、ウィルソンにあらぬことを吹き込み、復讐にギャツビー宅へ向かわせる。

ギャツビーの葬儀には誰も参列しない。デイズィも、ブキャナンも、ギャツビーのビジネスの側近だった人物も。葬儀からしばらくたったある日、ミネソタからギャツビーの父親がやってきて、持参したギャツビーの少年時代の日記をニックに見せる。一時間単位で毎日の日課を書き込み、勤勉と克己を自己に課していた少年時代。軍隊時代にその功績を認められて、帰国後はおおっぴろげにはできないような仕事ではあるが(そういう仕事でもしなければ東部のエスタブリシュメントには太刀打ちできないのだ、とフィツジェラルドは暗に言っている)、一財をなし、デイズィを取り戻そうとする。それはある時点まで、彼の願ったとおりに進んだ。しかし、デイズィ自ら引き起こした事故が彼の希望を砕いた。

ニック・キャラウェイは、ギャツビーが運命の渦に呑み込まれて死んでしまうのを見届けるにいたって、何かを失なわいために、何かを取り戻すために、手に入れかけたものを手放すという選択をする。ニックがニューヨークから故郷のミネソタに戻るのは、ニューヨークの競争社会に落後したのではなく、またそのような社会に異議申し立てをしたかったのでもなく、のし上がっていくだけの自分の力不足に気付いたのでもなく、自分には自分がいるのふさわしい場所があり、それがニューヨークではないと悟ったからだ。つまり、自分の元々持っていた「成長」の意味を訂正した。不思議な隣人ギャツビーの運命のうちに自分自身を見たというのもあるかもしれない。

でもわからないことがある。なぜ、ジョーダンを振ったのか。彼女はあきらかにデイズィとは違って地に足のついた、現実を生きている女だ。結婚すれば良かったのに、とぼくは単純に思ってしまう。これがぼくには分からない。小説の中ほどでニックはこう言う。「三十歳--今後に予想される孤独の十年間。独身の友の数はほそり、感激を蔵した袋もほそり、髪の毛もまたほそってゆくことだろう。しかし、ぼくの傍にはジョーダンがいた。これは、デイズィとはちがって、きれいに忘れ去られた夢を、年から年へと持ち続けていくことの愚かさをわきまえている女だった。」だったら、ニューヨークを去るにしても、ジョーダンとの関係まで断ち切ることはなかったのに。

最後に。ここには書かなかったが、語り手ニックや、ギャツビーの口からは、ブキャナン夫妻に代表される富豪階級に対する批判が出てくると同時に、アメリ東海岸社会と中西部との超えられない壁のようなものにも言及する。だから、ギャツビーとデイズィの間に立ちはだかる階級の違いだけでなく、東部と中西部との溶け合いがたさもこの小説を読み解く重要なファクターだ。

最後の最後。「グレート・ギャツビー」の書き出しは美しい。この書き出しは、ジャック・ケルアックの恋愛小説「サブタレーニアンズ」のそれや、ボブ・ディランの「風に吹かれて」の一節"Don't criticize what you can't understand"と共鳴する。そして、ギャツビーの心情は、ハンク・ウィリアムズの歌う「マンション・オン・ザ・ヒル」のようだ。


初出エキサイト 4/9/2007 M http://takebay1.exblog.jp/5396719/