「愛のコリーダ」

アメリカで流通している日本映画のビデオは限られていて、黒沢、小津、溝口、宮崎以外にないものかと、監督名で図書館のカタログを検索していて見つけたのが大島渚だった。タイトルはThe Realm of Sensesで、見始めてしばらくして主人公の女の名前が「さだ」だと分かり、阿部定事件を題材にしていることに気付いて、見終わってネットで調べたらこれがあの有名な「愛のコリーダ」(1976)だと知った。阿部定事件の顛末は知っていたので最後の切り取りシーンは驚かなかったが、映像としてどう表現するかには興味があった。でも、わりと普通にリアリズムを追求した撮り方だった。

定ははじめは不倫という道義を外した女として登場し、それが性的異常者になり、最後は残忍な犯罪者となってしまう。普通はこういう移行の段階を経るたびに人間的に屈折していくか、次の段階へ移行する外的な契機が存在するが、定にはそれがない。特に何があったわけでもない。好き、愛してる、気持ちいい。これが最初から最後まで一貫している。だから、ストーリーが進行するにしたがって、定は落ちぶれていくわけでもなければ、吉の定にたいするコントロールの度合いが増していくのでもない(むしろその反対かもしれない)。事件らしいことはいくつか起こるが、それらは定をいかなる意味においても変化させない。彼女とすれば、この人が好き、それだけだ。

タイトルに反して、この映画では愛は描かれていない。愛とはもうすこし社会的といえばいいのか文明的といえばいいのか、つまり現実的なものである。一番分かりやすいのは結婚だ。結婚は法的に保障されている。つまり、現実的な関係だ。ほかにも、当たり前のことだが、小津安二郎の映画のように、いろいろな人間関係を気遣いながら生きていく。これも愛の現実的な部分だ。誕生日にはプレゼントを贈る、これも愛の現実的実行だ。でも、定と吉は、嫉妬はするけれども、結婚しようとか、働こうとか、どこかへ逃げようとか、そういうことには一切関心がない。この映画にはそういう意味での愛が欠如している。

この映画を理解するのに大事なのは、性と愛とを区別することだ。定と吉のやっていることは愛の行為ではなく、性の行為だ。二人は肉体的快楽だけを追求しているのである。通常は愛と性は表裏一体のものとして理解されるが、この二人の場合は愛という理屈めいた、文化的なものには興味を持たない。定は快楽という自分にだけ分かるものを追求して、吉は定の求める快楽を提供することだけに徹している。そういう意味ではふたりはとても純粋だ。世間の目は一切眼中にないし、結婚したいという願望も一切ない。世間的には不倫関係なのだが、当人たちにはそういう社会規範的発想すら欠けている。

愛のコリーダ」は愛の究極を描いた映画ではない。少なくともこの映画においては、愛と性とを同一視してはいけない。これはむしろ、愛の存在しない男女関係をきわめて批判的に表現している。人間は自らの欲望を抑圧することで文明を発達させてきたというフロイトのテーゼを持ち出すまでもなく、人間は放置しておくとどう暴れるか分からない欲望、この映画で言えば性欲を管理しなければいけない。愛とは、文明社会を発展させるために人間が作り上げた一つのイデオロギーである。定と吉には、そういうイデオロギーが抜け落ちている。

この欠如感覚が鮮烈に浮かび上がるのが、吉が通りを歩いていると、出征する兵士の列とすれ違うシーンである。このシーンを思いついたのは大島渚の才能である。戦争というある意味、文明の暴走化した行為と、吉・定の極限の非文明的行為が一瞬だけすれ違う。

この映画には愛は存在しないと言ったが、反対の見方は必ずあって、この映画は愛の純粋さを表していると見る人は絶対いる。そういう見方はどこからくるんだろう? 考えるに、愛とか性的充足を、人間性回復の重要な手段、機会だとする発想は何となくぼくたちにあると思う。カウンターカルチャーにはそういう部分があった。エーリッヒ・フロムもそういう考えをした。現実はいろいろしがらみがあって、何かにつけて思うようにいかないという現実認識を帰納させて、社会や文明が人間の本質的幸せを阻害していると大上段に構える。そして、愛はそういう根本的な対立をたとえ瞬間にせよ解きほぐしてくれると考える。歴史的な経緯があって今ここにある社会的構造に対して、一個人と一個人とのある種特別な関係が、イデオロギー的に勝利する。その過程で出てくるのは、必然ながらサヨク的な社会批評の数々である。これが現在に広く流通している愛と社会の関係みたいなものである。だって、社会を悪く言う人はいるが、愛を悪く言う人はいないではないか。

愛のコリーダ」はエロスの悦楽でも、究極の愛の行く果てでもなく、愛が一歩まかり間違えばこんなにも悲惨なことになるというブラックジョークであり、世の中にあまたある愛のストーリー(個人個人の経験の中に積み重ねられていく愛も、文化的に生産されている愛も含めて)に対する、痛烈なパロディである。


初出エキサイト 12/18/2006 M http://takebay1.exblog.jp/4866882/