"A Prairie Home Companion"

これはUnitedの機内で見たのだが、ちょうどぼくがこれを地上10000メートルの上空で見ている頃、監督であるロバート・アルトマンRobert Altmanが亡くなった。 "MASH"や"Nashville"という大傑作映画を作った監督だった。2006年の夏に公開されたこの"A Prairie Home Companion"が遺作となってしまった。

タイトルのPrairie Home Companionはラジオの公開番組名で、この番組を収録している劇場が、テキサスの大富豪に買収されて解体されることになり、番組も打ち切らざるを得なくなった。映画は最後の公開放送の様子を描いている。司会進行役のG.K.がいつものように、ちょっと湿りがちなギャグを飛ばしながら、レギュラー陣の歌手たちを次々と舞台に登場させる。カメラは舞台と楽屋とを行ったり来たりする。とくにこれといった筋はない。楽屋での出演者たちのおしゃべりや、生放送ならではの緊迫感を再現しながら映画は進んでいくのだが、放送の中ほどで事件が起きる。レギュラーの歌手が発作で死んだのだ。全員がそのことに気付いているわけではないが、とにかくショーは続けなければいけない。この突然の死にあたふたする人たちや、最後の番組だからと言って、カントリーのデュオが台本にはない下ネタ連発の歌を唄って、ディレクターを激怒させたりと、番組が進行するにつれててんやわんやの様相を呈する。

それでも、けっしてばたくさい出来にならないのは、さすがアルトマン。とくにこれといった主題があるわけでもないが、この映画にはメランコリーというある種の気分が通底している。それは番組が終わるという事実からくるメランコリーではなく、番組が終わった後にもそれぞれの人生は続くという事実とその承認からくるメランコリーと言えばわかるだろうか。この気分を、レギュラー歌手の本番中の死が際立たせる。死といえば、自殺をテーマにした詩を書くのが好きな若い女が出てくる。映画の最後のほうで、本人と意志とは裏腹に舞台に引っ張り出されて即興で歌うのだが、この女が司会のG.K.に言い寄るシーンがある。最後の番組なんだから、そして長年一緒に番組を作ってきたレギュラーの一人が死んだんだから、観客になんかお別れの挨拶をするべきだと、この若い詩人は言うのだ。それに答えてG.K.は、人々にこの番組のことを記憶してもらいたいとは思わない、というようなことを言う。この女にとってみれば、番組の終了は一つの事件であり、歴史的瞬間なのだ。なにかコトバが必要なのだ。だがG.K.の考えは違う。人の命と同じように、番組にも始まりがあればいつか終わりは来るというだけのことに、とりたてて修辞を述べる必要を感じない。明日も人生は続くのから、番組が終わるのも、劇場が取り壊されるのも、特別なことではない。彼はそう考える。だから、この映画が醸し出すメランコリーの気分は、過去に引きずられるのではなく、現在にがんじがらめになるのでもなく、未来に伸びていく。シニカルではあるが確かな現実感覚に根ざした主人公の態度である。

実は、A Prairie Home Companionという公開ラジオ番組は、現実に存在する。1974年から続いている長寿番組で、映画と同じく、日曜日の夕方、2時間の枠でミネソタ州セント・ポールのフィツジェラルド劇場(あのスコット・フィッツジェラルドの名前をとった。この大文豪はセント・ポール出身)から公開生放送されいて、全国のラジオで聞ける。現実のラジオ番組で司会役を務めているガリソン・キーラーGarrison Keillorが、映画でも司会進行役で出ている。映画では番組は終了するが、実際の番組は今でも続いている。

日本では来年公開されるようだ。全国ロードショーといくにはややインパクトが弱いか。実際のラジオ番組を聞いたことのない日本人には、アルトマンの遺作ということだけではアピールが弱いし、メリル・ストリープが出演しているが主演級ではないので大々的に宣伝には使いにくいし、邦題は「今宵、フィッツジェラルド劇場で」らしいが、ロマンスものっぽい感じに聞こえる。とあれ、こういう映画こそ、多くの人に観てもらいたいと思う。見る機会があれば、是非見られることをお薦めする次第である。


初出エキサイト 12/12/2006 TU http://takebay1.exblog.jp/4836680/