「東京物語」

子どもを訪ねて東京に遊びに来た老夫婦が粗末に扱われ宿無しになる。小津安二郎の名作「東京物語」(1953)は一見そういう哀しい映画に見える。

尾道に住む平山という老夫婦(夫は笠智衆)が、東京に住む子どもたちを訪ねるところからこの映画は始まる。時は1953年夏、東京は見事に復興していてすでに人賑やかで町全体が忙しそうだ。最初は、開業医の長男の所に泊めてもらう。着いたその夜に長男の家に、長女(杉村春子)や戦死した次男の嫁(原節子)も会いに来てくれて、ここまでは順調だった。しかし、日曜日の出かける約束が、急患が入り中止になる。問診に出かけようとする長男に、嫁が「自分がお父さんお母さんを連れて出かける」と言ったが、それをすると病院に誰もいなくなるので、もしものときに対応できなくなる。中学生の息子も、おじいちゃんとおばあちゃんとの外出を楽しみにしていたのに、突然の中止に我慢ができない。これまでもこんなことが何度もあったのだ。医者とは聞こえがいいが自営業だ、仕事最優先の生活は致し方ない。息子の生活ぶりを目の当たりにした父はやるかたなく家で居心地悪そうにその日を過ごす。二日目、美容院をやっている長女が、戦死した次男の未亡人の紀子に電話をして、二人を東京見物に連れてやって欲しいと頼む。紀子は次の日仕事を休んで、はとバス観光に出かける。

老夫婦は、次は美容院をやっている長女の家に泊めてもらうのだが、やはり忙しくて構ってもらえない。この長女は、お客に自分の親のことを「知りあい」と言う。さらにやたらとけちくさい。長女と長男は自分たちが世話をできないので、困った揚げ句の策として、親だけで熱海に行ってもらうことにした。ところが熱海の旅館は、他の客が夜中までマージャンをやったりで、快適な旅とは言えない。それで早めに熱海を切り上げていったん東京に戻り、尾道に帰ることを決める。老夫婦は、子どもたちは確かに成長したが、別の意味で残念な成長であることを悟る。医者とはいえ、休む暇もなくはたらく開業医の長女、美容院経営とはいえ、まったく余裕のない長女。親ではあるけど、構ってもらえない寂しさ。でも子どもたちの現実はわかる。

熱海から帰ってきた二人は、「宿無しになってしもうたなあ」と嘆きながら、今晩はどこへ泊めてもらおうかと思案する。唯一親切な紀子は一人暮らしのアパートのため、二人泊まるのは無理なので母だけ泊めてもらい、父は知り合いを訪ねてなんとか泊めてもらえるだろうと、友人を当てにする。ところが父は久しぶりにあった友人とすっかり飲み過ぎてしまい、警察に連れられて長女の美容院にもどることになってしまった。しかも、友人も一緒に。

次の日の列車で尾道に帰るが、車中で母が気分を悪くし、大阪で途中下車した。不幸中の幸いというか、大阪にも息子がいて、その息子に会うことができ、体調も回復し、尾道に着いた。しかし、尾道について数日後、母が危篤に陥る。夜行に乗って東京から尾道に駆けつける子どもたち。紀子も一緒だ。しかし、着いた日の明け方、母は息を引き取る。葬式をすませ、食事の時、父が席を離れたすきを見計らって、形見のリクエストを出す美容院の長女。尾道で葬式が済んだその日に、長男、次男、長女がさっさと帰って、いわば他人である紀子がしばらく残る。そしてこの映画は、父に「実のこどもたちよりも、赤の他人であるあなたの方がよっぽど、、、、」と紀子に向かって語らせる。

哀しい物語ではある。この映画では、歳をとることは耐え忍ぶことと同義になっている。せっかく東京まで出てきたんだから、もう少し構ってくれてもよさそうなものなのにと思ったはずだ。でも、笠智衆演じる平山さんとその妻は怒ったり、嘆いたりしない。世の中の移り変わりをじっくりと味うかのようだ。平山老夫婦の悲哀を救うのが紀子である。死んで8年にもなる夫(平山さんの息子)の写真をタンスの上に飾って一人で暮らしている。泊めてもらった母は、いい人がいたら早く再婚しなさいと勧める。

この映画は意図的に、紀子を親孝行ものに、医者や美容師の子どもたちを(特に美容師の娘)親不孝ものに見せようとしている。しかし、長男たちが薄情で、紀子が優しいと決めつけることはできない。長男は開業医で自分の代わりはいないし、長女は美容院を経営しているのだ。自分の生活は自分にかかっている。一方、紀子は平社員だ。二、三日会社を休んでも代わりがいる。それから、医者だから、店の経営者だから親不孝ものになってしまったと考えるのも変だ。戦死した夫の両親をけなげにいたわる紀子は平社員であることから、社会的に偉くなればなるほど非人間的になってしまうと短絡してはいけない。それはマルクス主義者の発想だ。

ぼくたちは、家族というものは永遠に変わらない人間関係を保てる制度だという幻想を抱いているのかもしれない。小津安二郎の本意がどこにあったのか知らないが、これは家族や親子の伝統的関係が崩れたことを伝える映画ではないとぼくは思う。でもそういうふうに見える。なぜなら、まずこれが東京での話だということ、もう一つは戦後の経済成長期の話であるからだ。東京に住んでいるから、あるいは経済復興で忙しかった時代だから、子どもたちはわざわざ東京に出てきた親を歓迎できなかったのではない。でもぼくたりはそういう発想に慣れすぎている。経済発展を必要悪だと見てしまう。だからぼくたちは、日本の経済発展を語るときは必ずどうじに、拝金主義の横行とか、伝統的価値観の喪失とか、人間関係の希薄化とかも持ち出す。

東京物語」はわりとよくある、人間は歳をとるにつれて変わるものだという普遍的真理を言っているに過ぎない。親子関係だってそりゃ変わらざるを得ない。親にとって子どもとの関係は、子どもが家を出たときである種終わっている。それだけのことだ。二人とも自営業で、平山さんは公務員だったので、その違いだと単純に考えることも可能だ。でもだ、昭和20年代という時代設定、首都東京・尾道という距離感(物理的であるとどうじに、一地方都市と首都という圧倒的な差)という設定、そしてぼくたちは戦後の奇跡的経済復興という歴史を念頭において、この映画を見る。すると、単なる人情物語以上の意味を汲み取らざるを得ない。戦前の社会に対して郷愁的になるとか、経済復興のためならいろいろ犠牲にしなければいけないという集団的了解とか、親を大切にするという儒教的観念がくずれたとか、この映画に出てくる人はかなり恵まれているほうでもっと悲惨な生活をしていた人はたくさんいたとか、どうしても社会批判のような視点で「東京物語」を見てしまう。

1953年当時、政治、経済、文化のリーダーたちが、「東京物語」が示したようなブルジョワ的価値観をどうように考えていたのかは調べる価値がある。それから、当時の人たちはこの映画をどう理解したかも、調べる価値がある。

人は変わる。価値観がいかに移ろいやすく日和見的なものか、あるいは現実に合わせて変えていかなければならないものか、ぼくのように歴史を専門に勉強していると、そういうことはよく思う。映画の最後で、尾道で両親と一緒に暮らしている小学校の教師の末娘が、あまりにも冷たい長男や長女を見て、怒りがこみ上げる。それをなだめる紀子。みんなそれぞれ自分の生活があるんだから、そっちの方を優先しなければいけない。紀子はそう言って末娘を諭す。でも、紀子はたぶん分かっている。自分の死んだ夫の両親に対する行為は、親切とは別の種類のものだということを。何か? 個人的には、それがこの映画の一番のポイントだと思っている。ここには書かないけど。


初出エキサイト 8/24/2006 TH http://takebay1.exblog.jp/4179385/