「浮草」

三重か和歌山あたりの漁港にやってきた旅回りの 歌舞伎一座の親方、駒十郎。この町には別れた女とその女との間にできた息子が暮らしている。興行の名目でじつは12年ぶりにこの女と息子に会いに来た。息子には自分のことを父親だとは言わずに、叔父ということで通している。一方、一座の一員である今の妻は、なぜ駒十郎がこんなちっぽけな町で芝居を打つことにしたのか腑に落ちないでいた。そして団員から駒十郎の過去を聞きだした。嫉妬に狂う妻は一座の若い女優を金で釣って、駒十郎の息子を色じかけで落とすよう依頼する。これがあっさりと成功してしまう。やがて駒十郎は妻の悪だくみを見抜くが、そのころには駒十郎の息子と一座の若い女は、きっかけのことはともかく、本気で惚れあうようになっていた。一方、芝居のほうはさっぱり客が入らず、おまけに年配のメンバーに金を持ち逃げされ、一座を解散せざるを得なくなった。最後の晩、駒十郎は女のところへ別れを告げに行くと、息子がその女と駆け落ちしたことを知る。二人は結局戻ってきたが、そのときに真実を息子に伝える。息子は拒絶し、駒十郎は落胆し、つてを頼って別の町に行こうと駅に向かった。すると、今の妻が待合室で汽車を待っていた。二人は、もういちどやり直そうということで、二人で汽車に乗り込む。

これが小津安二郎の1959年の映画「浮草」のストーリーだ。昭和30年前半にこういう旅回りの一座がどれほど一般的であったのかは知らない。けれど、オリンピック景気がそろそろ始まるという時期で、テレビの普及率がぐんぐん上昇していった時代にこういう昔の娯楽の形態は衰退の途であったということは間違いないだろう。それなのに小津はなんでこんな作品を撮ったんだろう。調べてみると、小津は1934年に「浮草物語」というのを作っていて、1959年の「浮草」はそのリメイクだということだ。ストーリーはまったく同じ、場所が山間の町から漁港のある町に変わっただけ。懐古主義なのか戦後日本批判なのか、はたまたネタが尽きたので仕方なくリメイクなのか。制作事情を知りたい。

ストーリーと演技はとてもいい。この前見た「秋刀魚の味」のおっとりした演技とは違い、役者の演技には小気味よいテンポがあるし、ストーリー展開も楽しめる。アウトローな役者人生、定住することになじめない人たちの哀しさと潔さ、そういうものが駒十郎を中心によく現れている。親子三人で暮らすことは現実的に可能だけど、自分の生き方を今さら変えられないという矜持のようなもの、それは意固地になっているのではなく、格好付けてるのでもなく、見栄を張っているのでもなく、なんというのかある種の潔さ、ある種の諦念、ある種の強さ、究極の個人主義といってもいいだろう、そういうものを感じ取った。それは、毅然として駒十郎を再び放浪の途へ送り出すこの女にも当てはまる。

若尾文子は美しい。それから、最後のシーンの駅の待合室の様子は、ぼくの生まれた町の駅のそれとそっくりだ。


初出エキサイト 7/12/2006 W http://takebay1.exblog.jp/3938115/