「勝手にしやがれ」(ゴダール)

夜、図書館でゴダールの名作「勝手にしやがれ」(1960) を見た。英語タイトルは Breathlessという。仏語では À bout de souffle。意味は知らない。自動車泥棒の常習犯ミシェルが警官を殺して、アメリカ人留学生パトリシアに恋をして、最後は警官に打たれて死ぬというそれだけのストーリーだけど、なぜかこの映画はぼくの心に深く染み入る。これまで何回も見たけどいつも同じような感覚にとらわれる。何がそうさせるのか分からない。ミシェルに感情移入するわけでもないし、パトリシアを演じるジーン・セバーグのような女の子と恋をしたいとは思うけど、パトリシアのようなキャラクターの女は現実的に疲れるので惚れ込むわけでもないのに。

労働者階級の男と上流階級の女という組み合わせは恋愛ものの定番ではあるけれど、この二人は根本的にかみ合わない。だから階級の違いを超えて愛をはぐくむといったロミオとジュリエットのようなストーリーではない。ミシェルはただパトリシアを抱きたいだけなのだし、パトリシアは、今風に言えば、恋愛力を高めたいだけなのだ。

二人がタバコをすいながら見つめあうシーンはぐっとくる。ぼくの経験では、これをやると相手との心理的距離が縮まるような気分になるのだ。誰とでもというわけではなかったけど。タバコをすわなくなった今ではもうこういうことはできないなあ。

パトリシアは特定の男と関係をもつことは男に従属することを意味するので自立の邪魔だと思い込んでいる。ミシェルはその論理が理解できない。だから自分の論理を一方的に喋るだけ。パトリシアは女の自立という思想を盾にしてミシェルとまともに取り合わない。それでも愛の真似事のようなことはする。愛とはこの二人にとってはそういうものなのだ。ミシェルがパトリシアに対してしばしば吐きかける「根性なし!(字幕ではcoward)」のセリフはしたがって的を得ている。ミシェルはもしかしてただたんに自分と寝てくれないので文句を言っているつもりかもしれないが、パトリシアにとってこの言葉はもっと深刻な響きを伴う。仕事を得ることを優先している自分の状況を理由に、ミシェルを恋愛対象としてどう評価するのか(実際ミシェルは、自分をどう思うのかと何度か彼女を問い詰めている。)という問題を先送りしているからだ。その態度を根性なしと言われていることはおそらく分かっている。でも求愛の返事に困ったら、仕事のことを持ち出してのらりくらりとかわしている。今現在の時を楽しみたいミシェルと将来のキャリアのために今現在の楽しみを先延ばしにしているパトリシア。典型的な階級間の違いだといえばそれまでだが、二人はけっして妥協をしない。相手の考えに分かったふりをしない。そういう意味では正直であり同時に不器用なカップルだ。

ラストシーンで、警官に撃たれてよろめきながら我々に背中を向けて逃げるミシェルは、警官から逃げているというよりも、愛の意味がかみ合わないパトリシアから逃げているようだ。パトリシアが警察にチクったことは彼にとって大した意味を持たない。愛の意味が通じないことこそが問題なのだ。それから逃げたいのだ。足がもつれて石畳に伏せ落ちたミシェルのもとに警官2,3人と少し遅れてパトリシアがやって来る。ミシェルは彼女に口パクで何か言う。程なく彼は息を引き取り、すぐさま彼女は警官に、なんと自分に言ったのか警官に聞く。英語の字幕ではyou are a little bitch と翻訳していた。原語ではyou are disgusting のような意味のフランス語らしいけど。

ミシェルがかわいそうだとは思わないし、警察にミシェルの居場所を密告したパトリシアの葛藤を理解してあげようとも思わない。パトリシアはするべきことをしただけだ。刑事に留学生の身分を手玉に取られて警察に協力しなければ滞在ヴィザがどうのこうのと圧力をかけられたのだ。誰だって現実的判断力があればそうするだろう。フランス哲学のようにそれは合理的な行為だ。

と、ここまではすらすらと書けるけど、だから何なんだろう? ぼくをつかまえて離さない「勝手にしやがれ」の魅力は? と最初の疑問に戻る。わからないんだ。不毛の愛、いやそんなことではない。命のあっけなさ、そういう話なら他の映画や小説でたくさん読んだ。悪党ヒーローの活躍、それならBonnie and Clyde (1967)(邦題「俺達に明日はない」)の方が面白い。わからない。次に見るときの宿題としよう。

初出エキサイト 4/7/2006 Friday http://takebay1.exblog.jp/3465505/