「フィンランド駅へ」

こんな作品を書きたいなあ。エドマンド・ウィルソンの「フィンランド駅へ」を読みながら、10回ぐらいそうつぶやいた。エドマンド・ウィルソンアメリカの高名な批評家で、「フィンランド駅へ」は社会主義思想の系譜を辿った1940年発表の本だ。ウィルソンは、フランスで生まれた社会主義思想が、ドイツでマルクス・エンゲルスによって理論化され、ロシアのレーニンによって実現される過程を描く。構成をかいつまんで説明すると、フランスの歴史家ミシュレからはじまり、ルナン、テーヌ、アナトール・フランスがつづき、バブーフ、サン・シモン、フーリエオーウェンを経て、マルクスエンゲルスが登場する。同時代人のラサール、バクーニンとの確執、最後はトロツキーレーニンで締めくくられる。

ウィルソンは、伝記的記述と歴史批評を使い分けながら、「フィンランド駅へ」を進めていく。マルクスマルクス主義社会主義思想に明るくなくても、歴史、社会運動、政治学に興味のある人なら十分楽しめるだろう。理論的考察も随所に出てくるが、必ずしも全部理解できなくても本書の面白さは伝わってくると思う。私のマルクスに対する知識とて、大学院の社会学の授業でThe Marx-Engels Readerを読んだ程度のものだが、「フィンランド駅へ」を読みながら、授業でThe Marx-Engels Readerを読んだ時の記憶を掘り起こし、そういうことだったのかと合点が行くことがしばしばあった。たとえば、The Marx-Engels Readerを順に読んでいくと、「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」などのフランス政治を論じたものと、「ドイツ・イデオロギー」や「資本論」などの文体との差に戸惑ったのを覚えている。「ブリュメール18日」や「フランスの階級闘争1848−1850」が軽快なテンポときつい風刺を効かせて読者を引きずり込むのに対して、「資本論」のもってまわったような言い回しについていくのに疲れたりしたのを覚えている。ウィルソンはいう。フランス三部作(「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」「フランスの階級闘争1848−1850」「フランスの市民戦争」英語タイトルは、"The Class Struggle in France 1848-1850," "The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte," "The Civil War in France")はマルクスの最高傑作だと。彼の風刺家としての能力が最大限に発揮されていると。マルクスは第一義的に一流の風刺評論家だったというのがウィルソンのマルクス評である。理論家としてのマルクスは二の次なのだそうだ。そう考えると、「ブリュメール18日」などのいきいきした文体にも納得がいく。

マルクス・エンゲルスの章は、「資本論」ほかの著作を読む際のよきガイドとなり得る。時代背景としては、社会進化論が全盛の時代だったから、マルクスもやはり、ウィリアム・モーガンのイロクォイ族の研究などに影響を受けた。また、10代の頃はロマン主義的な詩を書いていた。(その部分の記述を呼んで思い出したのだが、私が最初によんだマルクスの作品は、「共産党宣言」でも「資本論」でもなくマルクスの詩集だった。)青年特有のナイーヴさに、当時の進化論的思想、そして風刺屋としての資質が重なりあってマルクスの諸作品が生まれた。だからウィルソンは、マルクスの理論の根本的欠陥を指摘しながらも、数々の作品で発揮されたマルクスの一流の風刺、説得能力の高さを評価している。

社会主義運動家を論じる際のウィルソンの基準は、大衆の中に飛び込んでいけるかどうかである。飛び込んでいけたのがレーニンでありエンゲルスであった。できなかったのがマルクストロツキーであった。マルクスが「できなかった」と断じているのには違和感を持つかもしれないが、ウィルソンによれば、マルクスは資本家が憎かったのであり、労働者に親近感をいだいていたわけではなかった。この区別(特定の社会集団に対して敵意を抱くことと、その集団と利害が対立する集団に親近感を持つことの、同じようでいて実は異なる政治的態度)はとても重要ではないかと思う。私たちが個々にいだく政治的信条は、けっして純粋な気持ちや無私の考察からから生まれるものではなく、利己的な計算や個人的なうらみつらみから発するものだと割りきって考えた方がいいからだ。バートランド・ラッセルは、民主主義の基礎は妬みの感情であり、理想主義は情念から生まれると言っている。マルクスはつまり、資本家に対する憎悪から社会主義革命をプログラムしたのであり、その対抗勢力としての労働者階級に対しては理論上は大雑把な扱いをした。そういうことを考えると、マルクスの資本家嫌い、労働者に対する無関心という尺度は、彼の思想を読みとく際の一つの鍵となる。

ウィルソンは1930年代にこの書の構想を得て、執筆を開始した。執筆を開始した時点では、ウィルソンは社会主義革命を支持していたようだが、彼が実際にソビエトを訪れたあとでは見方を180度変えた。ウィルソンだけでなく、1940年以前から社会主義思想に対して距離をおく知識人はすでに多かった。たとえば、ジョージ・オーウェルは、スペイン内戦で反フランコ勢力のPOUMというマルクス主義労働者党の一員として戦線参加したが、党の体制に疑問を抱くようになった。アメリカの「パルチザン・レヴュー」誌は、反共産反左翼の論調を鮮明にしており、オーウェルは主要な寄稿者の一人だった。

フィンランド駅へ」の最終章は、1917年4月に、レーニンが亡命先のフィンランドからペトログラードに凱旋帰国する場面である(フィンランド方面の列車が往来するペトログラードの駅を「フィンランド駅」と呼ぶ)。フィンランド駅では数万の民衆がレーニンを待ちわびた。レーニンは「4月テーゼ」を発表する。つまり、社会主義革命がまだ信じられる思想だった時代、いや社会主義思想が結実した最高の瞬間でこの本は終わっている。

ところが出版された1940年はといえば、ソビエトポーランド併合、フィンランドも併合しようとしていた。レーニンとともに10月革命を指導したトロツキーが、メキシコでスターリンの差し金によって暗殺されたのも1940年である。1940年の時点では、共産主義の正体が明らかになったというのが西側知識人たちの総意だった。すでに死んでいたとはいえ、レーニンをヒーローとして扱う「フィンランド駅へ」はタイミングが悪かった。それだからこそ、1917年のレーニン帰還で終わっている「フィンランド駅へ」は、今となって考えれば、一流の歴史的アイロニーだと言えるかもしれない。

ウィルソン自身は、レーニンの暴君的側面を知らなかったと後年になって書いている。執筆当時はレーニンに関する資料が限られており、レーニン賛美になったのもやむを得ない。ウィルソンが使ったレーニン関連の資料は、ソビエト共産党の検閲を受けた出版物だったのだから。しかし、レーニンに批判的な文献がなかったわけではない。そういう文献の存在を知っていたのか知らなかったのか、読んだのか読まなかったのかを、私は知らないが、もし、ウィルソンはレーニン批判の文献を知らなかったとしても、ソビエト訪問で現実のきな臭さを肌で感じたことは疑いようがない。しかし、社会主義革命の歴史を記述することが目的の本書では、レーニンを批判的に書いてしまうと、「物語」のラストシーンがなくなってしまう。パリコミューンや、インターナショナルが起こり、いよいよ帝政ロシア社会主義国ソビエトとして生まれ変わることこそが、この社会主義運動の軌跡を辿った書物のラストシーンにならなければならない。だから、ウィルソンはレーニンの正体を見て見ぬふりをした。これが私の推測である。

こういうわけで、「フィンランド駅へ」は、結果として、歴史の大きな転換期を見事に切り取った傑作として読むことができる。ヨーロッパで1848年を最後にブルジョア革命が下火になり、それと入れ替わるように共産主義国家樹立の思想がヨーロッパで盛り上がりを見せた。本書が扱った数々の政治思想家、革命家を一人ひとり辿り、最終的にレーニンで終わる本書は、まさに「歴史」の書であると言える。つまり、「フィンランド駅へ」はロシア革命の書でもなく、マルクス主義思想の書でもない。そういう読み方をすれば、どうしても古臭さは否めない。しかし、歴史の帰結についての一つのケーススタディとして読めば、現代的な価値が十分ある傑作である。