Ocean's 11

ソダーバーグ監督でジョージ・クルーニーブラッド・ピットが出ているあのシリーズものではなくて、その元になった1960年の映画。フランク・シナトラ主演だが、キャストを見ると、現実と交差している。映画でシナトラと共演している歌手のディーン・マーティンサミー・デイビス・ジュニアは、現実ではシナトラ・ファミリーとして、シナトラがプロデュースするラスベガスのショーに出ていた。シナトラ・ファミリーはラットパック(The Rat Pack)と呼ばれていた。だからこの映画はシナトラ・ファミリー総出演のような感じだ。映画では、シナトラをボスとした軍隊時代の仲間11人が共謀して、大晦日にラスベガスのカジノ5軒を同時に襲うという計画を実行する。

シナトラにとって1950年代は芸能界では怖い者なしの絶頂期で、その影響力を政界にも広げた。ケネディ一家との関係、それからマフィアとの関係(「ゴッド・ファーザー」で、コルレオーネ邸のパーティに出張して唄う歌手はあからさまにシナトラを連想させる)はよく知られている。

ただ、「オーシャンズ11」を見ると、歌手としてのシナトラが最後のあがきをしているようにも思う。50年代はシナトラの時代だと書いたが、60年代がちかづくと、ベビーブーマーの出現でポップ音楽が変質してしまい、シナトラのような音楽は急速に時代遅れの音楽に聞こえるようになった。この映画が制作されたであろう1959年はすでにエルビスの音楽ががアメリカ中に届き渡ったあとで、ビートを強調したロックンロールが若者の音楽になっていた。また音楽産業構造も変わった。戦前から続いてきたティン・パン・アレイ体制(ニューヨークの音楽出版社とソングライターたちがアメリカのポピュラー・ミュージックの制作を独占した体制)が終焉を迎え、かわりにニューヨーク以外の地方のレーベルが、ティーンエイジャーの嗜好に合わせた音楽を制作しだした。そんな音楽産業構造の過渡期において、いまだにシナトラの音楽が通用するのがラスベガスだった。

映画の中盤で、ディーン・マーティンが、襲撃するホテルの一つで、ビッグバンド風の歌を唄っているが、若者には見向きもされないような音楽だ。自虐的なギャグ・シーンも一つある。ディーン・マーティンが酔っぱらった女性をあやすために、誰とニューイヤーを迎えたいかと質問すると、女性はリッキー・ネルソンと答える。それに返して、マーティンは、「自分は昔はリッキー・ネルソンだったけど、今はペリー・コモなんだ。」と答える。これがなぜ面白いかというと、リッキー・ネルソンという歌手は、60年当時は、エルビスほどの過激さはないが、お上品なポップ・シンガーとして若者の人気を得ていたのに対し、ペリー・コモといえばシナトラと同じで過去の人だった。だから、映画のシーンで、昔はリッキー・ネルソンだったけど(昔は若くて人気があったけど)、今はペリー・コモなんだ(年老いて、若者には見向きもされなくなってしまった)というセリフは、シナトラやマーティンの当時の音楽的位置づけを分かりやすく表しているので、面白いのだ。

映画は、最後にどんでん返しが起こって、手に入れたはずの大金がすべて灰になる。シナトラたちが無念そうに歩き去るラストシーンは味わいがある。映画としては、佳作だと思う。だが、上に書いたように現実でのシナトラたちの立場を重ね合わせると、物悲しさを感じずにはいられない。