縮んだニュー・ヨーク・タイムズ

久しぶりにNew York Times を手に取ったら、紙面サイズが縮んだような。気のせいではない、確かに縮んでいる。縦長になって、四辺の余白部分が狭くなって、窮屈な感じを与える。見慣れれるまでの問題ではあるけど。

それで本日の一面には、日本の大型家電店で何台も積み重ねられた大型テレビに映っている安部晋三の写真が掲載されている。辞めると言ったのはいいが、スピーチで、その辞任の理由を具体的に名前を出して他人になすりつけるような人間なんて一面扱いする必要ない。そういう行動は別に珍しいことではなく、ちょくちょく出くわすので、なすりつけ発言自体には驚かないけど、それを一国の首相がテレビに向かってやったというのは、そのスピーチを見た人にしてみれば、かなりつらいものがあったのではないか。

辞任に関するNYTの記事を読むと、最初の段落で安部を"the nationalist leader"と呼んでいる。ほー、そうだったんですか。第二段落で、安部を"deeply unpopular"と切り捨てておきながら、その理由を全然書いてない。何段落かあとでは政治学者のコメントとして、安部は首相としての器ではなかったというくだりを引用している。ここまで読んで分かることは、どうもこの記事は最初から安部憎しのスタンスで書かれているということだ。それから、米議会での慰安婦非難決議案のことで一段落使ったり、教科書検定で戦争記述を書き換えることに熱心だったとかを書くのはいいとしても、それらが辞任とどうつながるのかを書いていない。多分この記事を書いた人は、安部が何故辞任に追い込まれたかには興味がなくて、嫌で嫌で仕方なかった安部がやっと辞めたということが嬉しいんじゃないだろうか。

このNYTの記事とThe Economistの記事とを読み比べると、同じ政治事件を扱った記事で、字数もだいたい同じでありながら、こうも差が出るのものかと感激の念すら覚える。エコノミスト誌の記事は、辞任の理由をきちんと分析している。あっちこっちからの引用やトリビアでマスを埋めるのでなく、自分で考えたことを記事にしている。小沢一郎に党首会談を断られたのが辞任の理由だとした安部の発言を、あり得ないと断じている。そして、辞任の理由を、小沢というやり手の策術に振り回されたことに帰している。そして最後で、次は麻生よりも福田の方がいいのではという具体的考察、その後続けて、でも誰が首相になろうともそれ自体は問題ではなく、民主党小沢とどう対決するかこそが大問題なのだと言い、最後は、民主党が近い将来政権をとるかもね、と結んでいる。この分析が妥当かどうかはおいておくとして、作文の勉強としてこのNYTとThe Economistの記事を読み比べることは有益だ。そういうことを思うのも、今日一つ自分の作文を完成させて、なんとしまりのない議論であることよと、頭を抱えてしまったからだ。どうにかして直さなきゃ。