ただのきれいごととは言い切れない何か

何年か前のこと、友人がぼくに尋ねた。女性大統領、黒人大統領、ユダヤ系大統領のうち、実現の可能性の高い順に並べたらどうなる? ぼくの答えは、ユダヤ人、女性、黒人だったと記憶している。一番起こりえないだろうと思っていたことが現実になった。普段は、自己主張が激しく個人の要求を最大限に押し出してくるアメリカ人だが、いざというときの団結力はとてつもない。今回の大統領選挙だけでなくて、毎回そういうことを感じる。でなければ、集会にあれだけの人は集まらない。どちらの陣営も、大統領候補の言葉に、拍手と声援で答える。オバマが使ったchangeというスローガンは、クリントンと戦っていた頃は、まだその意味がうつろに聞こえて、実感が伴わなかったたものだが、何度も繰り返しているうちに、そして支持者を増やしていく過程で、だんだん様になってくると言えばいいのか、リアリティがこもってくると言えばいいのか、信じてみる価値はあるかもという気にさせる。一方で、ChangeとかYes we can と言ってみたところで、ただの耳障りの良い言葉に過ぎないという見方も依然として持っている。たとえて言えば、日本のポップソングでこれらの英語をサビにでも使ったようなときの空っぽさと、ある意味での暴力性が共存したような感じか。選挙はイメージで戦えるが、政治は100パーセント具体的に行われるものだから、イメージに酔えば酔うだけ、現実がついていかないときには幻滅を味わうことになるかもわからない。しかし、オバマに限らず、アメリカの政治においてchangeのようなスローガンが使われるときには、ただのきれい事とは言い切れない何かが存在する。民主主義のエッセンスみたいなものなのだろうと、とりあえず自分を納得させているが、断言できるのは、それは、日本には存在しない何かであるということだ。そのことについては、もう考えないことにしているので、これ以上言うことはない。