「大人は判ってくれない」

こういう映画はいまではあまりないかもしれない。少なくともアメリカ映画にはこういうタイプの映画はない。中途半端な優しさが最初から最後まで出てこないという意味で。12歳の男の子の不遇を描いたフランソワ・トリュフォーの1959年の初監督作品だが、学校では劣等生で、家に帰れば両親の不和に気が滅入る毎日をすごすアントワーヌは悪友と連れ出して、学校をさぼり繁華街で映画を観るという楽しみを覚える。さらに盗みを覚えるが、しまいにはばれて警察にしょっぴかれる。親が引き取りに来たと思ったら、そうではなく、少年院に入れてくれと警察に頼む。少年院で、面会の日に母親が来る。やっと子どもに愛情を与えてこなかった自分を反省したのかと思ったら、そうではなく、もうおまえなんかを養育しないから戻ってくるなと言い捨てに来たのだった。次の日アントワーヌは、サッカーで遊んでいるすきを見計らい、金網をくぐって脱走する。どこまでもどこまでも走り続ける。解放感はない。悲壮感もない。無表情に走り続ける。最後に海に辿り着く。救いは見つからない。ここでは海はなぐさめの暗喩ではない。アントワーヌが見る海は、これから先も、これまで起こったようなことが続いていくとでも言いたげな、抑圧感にみちた海である。

邦題である「大人は判ってくれない」は、この映画の核心を捉えていない。英語では、フランス語の原題を直訳した"The 400 Blows"というタイトルになっているこの映画は、大人の子どもに対する無関心を訴えているのではなく、こどもがいかに孤独で救われない存在かを描いている。そこに大人に対する批判的姿勢は見当たらない。「理由なき反抗」のジェームス・ディーンのように、大人に対して異議申し立てをするわけではなく、自己顕示欲を競い合うような大人のまね事をするわけでもなく、アントワーヌは自分を苛む現実を離れて、自分自身を確認できる盗み、サボりなどの悪事を確信犯的に行う。

「大人は判ってくれない」は、大人が子どもを見殺すという点では是枝裕和監督の「誰も知らない」と通じるが、少年が意識的に罪を働くという点では「泥棒日記」のジャン・ジュネに通じる。男娼、窃盗犯という反社会的存在でいることに喜びとアイデンティティを見いだしたジュネのように、アントワーヌは疎外の埋め合わせとして悪事をはたらく。そのときの楽しそうな表情を見逃してはいけない。同年代の男の子がマンガを読んでいるときのような、実にリラックスした表情をしている。結局、学校とか家庭という制度化された場所には自分の居場所がないから、反制度的人間として盗みという「希望」を見つけたのだ。

この作品はトリュフォーの自伝的要素が強いらしいが、「大人は判ってくれない」を見て、ジュネのことを思い出したぼくは、社会のはみ出し者に対するフランス文学の手の差し伸べようはすごいと思った。セリーヌもこの系統の作家だったし、古くはボードレール、サドもいる。これと比べれば、アメリカなんて、せいぜいギンズバーグバロウズ程度のはみ出しぶりで、あるいはホイットマンはホモだったという話題で盛り上がるのだから、可愛いものだ。

社会から疎外された人間は、自身のアイデンティティをどう確立するのか? また社会としての役割は何なのか? 教育とか、更生訓練とか、家族の大切さ、とか答えるのがとりあえず正解になっているけど、トリュフォーのこのデビュー作を見て思うのは、周りの人間や社会がどうにもできないことはあると認めざるを得ないし、疎外を助長する人間にはそうすることで自分を社会の中にとどめておくような部分はあるし、疎外される人間はアントワーヌのように独自の自己形成を行うかもしれないし、親子の愛情はあらかじめ存在しているものではない(意識的に作りあげるべきものだ)ということだ。大人が悪いとか社会が悪いというのは、何も言わないよりも悪質だと思う。ラストのシーンで海を見たアントワープは、あのあとどうなるのだろう? 現実的に考えれば、すぐに少年院に連れ戻されて厳しい罰を受けるだろうが、そのあとのことはいろいろ考えるけど、これというストーリーは思い浮かばない。


初出 エキサイト 7/2/2007 M
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