フィル・オクス(Phil Ochs)というプロテストシンガー

フィル・オクスをまったく知らない人に、フィル・オクスがどういうシンガーだったのかを説明するのはむずかしい。いちおう、社会派プロテストシンガーだったと説明すれは、聞いた人は何となく分かってくれるのかも知れない。 しかし、オクスはこれといったヒット曲もなかったし、音楽的に独自性を発揮したわけでもなかった。後世ののミュージシャンに影響を与えたわけでもなかった。60年代には一部でそれなりに注目されたが、70年代になると過去の人となり、1976年に35歳の若さで自殺した。

いま、私はオクスのアルバムThe Broadside Tapes 1(1963年)を聞きながらこれを書いているが、はっきり言わせてもらうと、どの曲も同じに聞こえる。アコースティック一本の弾き語りなのだが、テンポや唄いかた、ギターの演奏などがおなじようにしか聞こえない。曲に変化がでないのはギター一本だから仕方がないとは言えない。ギター一本の弾き語りでも、同じ1963年に発表されたボブ・ディランのデビューアルバムBob Dylanと比べてみればよくわかるが、ディランの音楽はオクスとは比べ物にならないほど豊饒である。

1960年代前半は、フォーク・ブームの時代だった。新しい音楽体験を求めていた大学生たちが昔のフォーク・ソングを評価するようになり、全国のキャンパスでフォーク・コンサートがが開かれた。大学周辺のコーヒーハウスでは、フォークのライブが定期的に行われた。そんな中から、多くのスターが生まれた。ボブ・ディランジョアン・バエズ、ピーター、ポール&マリーなどである。かれらのほとんどは大学在学中にフォーク・ソングを演奏し始めた。キングストン・トリオ、ブラザーズ・フォーといった、ディランやバエズとは違ったスタイルのフォーク・グループも次々登場した時代だった。一部の若手フォークシンガーは、ソング・ライティングをするようになった。自分で詩を作り、メロディを乗せて歌った。ディランがそうだったし、オクスも自作曲をおもなレパートリーとした。

中学・高校時代のオクスは、エルビス・プレスリーチャック・ベリーなどのロックンロールや、ジェームズ・ディーンの映画に夢中になった。多くの同世代の少年とこの点では一緒だった。いつか自分もこのように有名になりたい、ティーン・エイジャーのオクスはそう思った。

フォーク・ミュージックを知ったのは大学に入学してからだった。ジャーナリズムを勉強するために、ニューヨークからオハイオ州立大学に進んだオクスだったが、入学後ほどなく一人の知人の影響で政治について関心を持つようになった。同時に、その知人からフォークギターの弾き方を教わったと言われている。

元々もっていたジャーナリズムへの関心と、新たに加わったフォークへの興味が一つになったとき、彼は大学をやめてニューヨークに戻ることを決意した。歌でもって自分の目指すジャーナリズムを表現できると思ったオクスは、プロテスト・フォーク・シンガーとして歌を作り始めた。彼の歌の題材は、社会的なものが多かった。当時のアメリカ社会は、ヴェトナム戦争があり、公民権運動があり、キューバ危機があり、正義観と理想にあふれたオクスのような若者にとっては、素材ががいくらでもあり、歌を作るには格好の時代だった。

PHIL OCHS: THERE BUT FOR FORTUNEというドキュメンタリー映画が2010年のおわりに公開された。すでにDVDが発売されていて、なるべく早く入手して見てみたいと思いながら、これを書いている。ホームページで公開されているトレイラーを見ると、個人的にはかなり興味をそそられる。新聞に載った幾つかのレビューを読むと、これは、オックスの伝記ドキュメンタリーであると同時に、60年代の左翼運動の記録でもあることが分かる。トレイラーでは、1968年のシカゴ民主党全国大会でのデモ・コンサートや、SDS(学生政治運動団体)のリーダーだったトム・ヘイデンが登場する。そのほか、60年代のオクスを知る人たち、ピート・シーガージョアン・バエズ、実の弟などが登場する。

エレクトラという小さなレーベルと契約したオクスは、フォーク・ブームの流れに乗り、政治的に濃密な時代で自分の居場所を見つけたように見えた。しかし、政治の季節はほどなくしてシニシズムの季節に変わった。フォーク・ブームは、フォーク・ロックとサイケデリックにとって代わられた。ライバルだったディランがどんどん音楽的進化を遂げていくのに対して、オクスの歌はじきに時代遅れとなった。オクスには音楽的な引き出しが少なかった。自分の音楽的表現をどんどん拡大していったディランに対して、オクスはプロテスト・シンガーの枠にとどまった。というより、それしか彼にはできることがなかった。1967年、エレクトラからA&M に移籍して、Pleasure of Harbourというピアノを中心にしたアレンジのアルバムを録音したが(時代に追いつくべく、これまでの殻を破ろうとしたのだけど)、評価はさんざんだった。

映画のナレーションにあるが、オクスはアメリカで一番のシンガーになるつもりでニューヨークに行ったが、そこにはディランがいて、とてもこいつにはかなわないと観念した、じゃあ二番目を目指そうと即座に目標修正した。もし、オクスが歌で二番になるのではなく、政治活動家に方向転換していたら彼の人生はどうなっただろうか。歴史的に歌と政治は切っても切り離せないが、しょせん歌は歌である。社会変革の触媒の役割は果たすかもしれないが、歌で現実直接変わるわけではない。シンガーは理想や政治的鬱憤を3分間の歌にまとめて表現できるが、政治家は理想を三分で語るこそできても、三分でそれを現実にできるものではない。

思うに、オクスの不幸は、音楽を自己実現の手段として捉えたことから始まったのではないかというのが私の意見である。ジャーナリストになりたい、有名になりたい、アメリカの社会を変えたいという希望をもつことは健全な精神のしるしだが、それらを、歌を唄うことで達成できると単純に考えてしまい、途中で気づいたのかも知れないが軌道修正できなかったのではないか。その葛藤が自殺するほどまで彼を苦しめたのではないか。

政治の季節が過ぎ去り、自分の歌を聴いてくれる人がいなくなり、音楽的路線を変えようにも音楽的引き出しがなく、いちおうレコード会社と契約はしたが、売れなければ契約を打ち切られるというビジネスの現実を目の当たりにして、オクスは60年代後半のカウンターカルチャー運動を経験することになる。真剣なのか、気晴らしなのか、自己逃避なのか、目立ちたいだけなのか、いずれにも受け取り可能なヒッピーたちを見たオクスは、忸怩たる思いで自分の歌手活動を振り返ったに違いない。

結局オックスは、一度もトップ40に入れなかったにもかかわらず、自己諧謔なのか(あるいは、新曲が作れないので仕方なく)ベストアルバムを発表したり、エルビスばりの衣装を身をまとってカーネギーホールでコンサートを行った。

フィル・オクスは、ポピューラーソング・シンガーのプロとしては特段優れた仕事ができなかったのかもしれないが、その時代にはいなくてはならない人だった。私はそのようにオクスを理解している。プレスリーやディーンのように有名になりたいという願望と、政治的正義を実現したいという理想が両立できるわけがない。しかし、いや、もしかしたらできるかも知れないという雰囲気がアメリカの60年代にあったのかも知れない。オクスは、この矛盾と幻想を地で行った。

ドキュメンタリー映画「PHIL OCHS: THERE BUT FOR FORTUNE」は、個人的にはたいへん注目している。オクスの音楽的業績というより、彼が短い期間ながらもシンガーソングライターとして輝いたのはどういう時代だったのかを知る手がかりは与えてくれそうな映画だと思う。見たら、もっと詳しいレビューを書きたいと思う。

(補足:オクスのもっとも有名な曲が"I Ain't Marching Anymore"で、この曲の入ったCDを下にリンクしている。それと新しく作られたドキュメンタリーのDVDもリンクしている。オクスのCDは何枚もあるが、生産中止になっているのかアマゾンでは在庫がないものが多い。アメリカのAmazonややiTunes Storeで探してみる方がよい)